先に触れたこの件。
「日本の生糸の品質が世界一」って、明治初年なのに? 明治初年の生糸事情 - Togetterまとめ
ここに次のようなコメントがあった。
KOLOR @JaneSioux 16時間前
最後が印象だけの日本叩きになってるけど、んじゃあ、高値で取引されてる'50sバービーの顔を塗ってたのは日本の企業(=内職のおばさん)だったってのはどうなんだよと思うな。 戦後の 設備自体が存在しない焼け野原の直後で、一応の(=買う人がいるレベルの物になってるという)輸出が出来たことが奇跡なんだが。
「高値で取引されてる'50sバービー」……複数のウェブサイトによると、バービー人形の販売が開始されたのは1959年*1。岩戸景気(58年6月-61年12月)のただ中である。すでに戦後14年を過ぎ、朝鮮戦争特需も終わり、日本は高度経済成長の初期にあった。したがって、バービー人形について言えば、「一応の(=買う人がいるレベルの物になってるという)輸出が出来たこと」は「焼け野原の直後」の「奇跡」でも何でもなかった。
また、敗戦直後の状態を「戦後の設備自体が存在しない焼け野原」とイメージするのも正しくない。昨日触れた本から再び抜き書きする。
浜野潔ほか『日本経済史 1600−2000――歴史に読む現代――』慶應義塾大学出版会, 2009年
第5章「戦時経済から民主化・復興へ」
●残存していた工業設備(232-233頁)
・工業機械器具の残存率:66%
・銑鉄製造能力:戦前(1937年)に比べると80%以上増加
・工作機械:戦前(1937年)に比べると2.4倍
・生産指数80%低下という数字は設備損耗以上に原材料と労働力の不足が大きい。
表5-5 敗戦時の生産設備能力
生産設備名 | 1937年度 生産設備能力 |
戦時中最高 生産能力 |
敗戦時生産 設備能力 |
C/B | C/A | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
A | 年度 | 設備能力B | C | % | % | ||
銑鉄(千トン) | (千トン) | 3,000 | 1944 | 6,600 | 5,600 | 84.8% | 186.7% |
圧延鋼材 | (千トン) | 6,500 | 1944 | 8,700 | 7,700 | 88.5% | 118.5% |
銅 | (千トン) | 120 | 1943 | 144 | 105 | 72.9% | 87.5% |
鉛 | (千トン) | 28 | 1943 | 48 | 48 | 100.0% | 171.4% |
石油精製 | (千トン) | 2,320 | 1942 | 4,157 | 2,130 | 51.2% | 91.8% |
工作機械 | (台) | 22,000 | 1940 | 60,314 | 54,000 | 89.5% | 245.5% |
硫安 | (千トン) | 1,460 | 1941 | 1,979 | 1,243 | 62.8% | 85.1% |
カーバイド | (千トン) | 915 | 1941 | 379 | 478 | 126.1% | 52.2% |
綿紡 | (千錘) | 12,165 | 1939 | 13,796 | 2,367 | 17.2% | 19.5% |
絹紡 | (千錘) | 462 | 1938 | 463 | 196 | 42.3% | 42.4% |
人絹 | (百万ポンド) | 570 | 1937 | 570 | 89 | 15.6% | 15.6% |
出典:安藤良雄編『近代日本経済史要覧第2版』150頁
まとめ
繊維産業は戦時に「不要不急」と位置づけられたのでその減少率は大きい。実際、最高生産能力の年度は1930年代であり、本土空襲で破壊される以前から減少が始まっていた。だが、工業機械器具は空襲で焼け野原になった記録写真のイメージよりも、ずっと多くが残っていた。全てが灰燼に帰した焦土の中、何もないところから戦後はスタートしたというイメージには、誤りが含まれているということである。
*1:例えば、バービー人形を販売するマテル社は、1959年を「バービー人形のデビュー」としている。(企業情報:沿革|マテル・インターナショナル株式会社)