明治時代の生糸に関する抜き書きとメモ

「日本の生糸の品質が世界一」って、明治初年なのに? 明治初年の生糸事情 - Togetterまとめ
大河ドラマ「花燃ゆ」で「日本の生糸は世界一の品質なのに諸外国に不当に安く買いたたかれている」という台詞があったとのこと。当時の生糸の状況はかなり違っていたというツイートがまとめられている。
参考に、手元の本から関連する箇所を抜き書きしてみる。

メモ(その1)

繊維産業については、絹と綿で大きく事情が異なることに留意が必要。
絹については、生糸が輸出競争力を持ち、在来型技術による農村工業が長く残った。
綿については、輸入綿糸・布に負け、在来産業は急速に衰える一方、大阪紡績会社などの近代的大工場による機械化と単純労働利用が進んだとされる。ただし、衰退の原因は輸入綿製品の打撃ではなかったとする見解(細糸・太糸の棲み分けなど)もあり論争がある(下記:浜野ほか2009, 92頁)。
なお「メイドインジャパン」が安価な粗悪品を意味し、日本人は猿まねばかりすると思われていた時代はあった。何より日本人自体が国産品は低質だという印象を持っていた。「舶来品」が尊ばれたのはそれほど昔ではなかった。もっと古くは唐物が珍重されていたし、そう考えると国産品への信頼が高い現代は日本史上珍しい時代だと言えるのではないか。

抜き書き1. 宮本又郎編著『改訂新版 日本経済史』, 放送大学教育振興会, 2012年

第3章「幕末開港・明治維新から近代経済成長へ」宮本又郎

……生糸は当時ヨーロッパにおいて生産が極度に不振に陥っていたこともあって、国際競争力があり、大量に輸出されてその(日本国内での…引用者注)相対価格は急速に上昇していった。これは、長野県など東山地方の農村における養蚕・製糸業の発展を促進したが、国際競争力があっただけに、その生産形態、技術には在来的要素が長らく残った。ただし、生糸輸出が伸びたため、西陣など旧来の絹織物業への供給が激減するなどの影響もあった。(同書50頁)

第4章「近代化の進展と伝統的要素」阿部武司

●中村隆英の「在来産業」
  近代産業:「海外から移植された技術と制度にもとづいた産業(政府部門を含む)」
  在来産業:「原則として、広義には農林水産業を含み、狭義には農林水産業を除いた、近世以来の伝統的な商品の生産流通ないしサービスの提供にたずさわる産業であって、主として家族労働、ときには少数の雇用労働にに依存する小経営によってなりたっている産業」
  在来産業の2区分:「伝統的な旧在来産業」と「外来の素材や技術をとりいれた新在来産業」(「3.新在来産業について」80-81頁)

●中村が挙げた「新在来産業」の例:器械製糸
  阿部は、この中村の規定にやや異論を唱えている。すなわち、
  →初期の器械製糸は新在来産業に区分してよいが、産業革命期以降の器械製糸は近代産業と見るべきだとする。

●阿部の主張
・初期の器械製糸について
  富岡製糸場の技術は各地に伝えられたが、その過程で、輸入設備の高価な素材は陶磁器屋も木材などに変えられて、安価な設備が普及した。これが「新在来産業」の定義に当てはまる。

・その後の展開

しかし器械製糸業は、日本の産業革命とも呼ばれる明治期後半には、横浜の売込問屋を介してアメリカの絹織物市場に生糸を大量に供給するようになり、アメリカ市場から製品の規格統一を強く求められるようになった。長野県の諏訪地方を中心に発展していった器械製糸業は、それに応じて、工女の労務や賃金の管理、製品の品質管理、商標の確立を各々厳格に実施し、日本銀行を頂点とする政策的な産業金融にも支えられるようになった。さらに器械製糸工場は、同じく産業革命期に目覚ましい発展を遂げていた大阪紡績会社などの大規模な綿紡績工場と比べ従業者数でみても劣らないほど大規模になっていった。明治期の日本では器械製糸のほかに、小規模な座繰製糸が国内の絹織物業に生糸を供給しており、群馬県など一部の地域の零細な座繰製糸業者は結社を組織して、アメリカへの輸出にも成功していた。この座繰製糸は旧在来産業、および初期の器械製糸は新在来産業に区分されよう。しかし産業革命期以降の器械製糸は近代産業とみるべきであろう。(同書80-81頁)

※在来型の座繰製糸は国内市場に適応し、輸出を担ったのは富岡製糸場由来の技術をベースにした「近代」製糸業だったという認識が示されている。

第5章 「産業革命」中林真幸

●第1節の(1)「近代製糸業の技術」

1859(安政6)年の自由貿易開始からまもなく、絹織物の原料糸となる生糸が日本の主要な輸出品になったことはよく知られている。しかし、当初輸出されていたのは農家が生産した在来糸であり、輸出の伸びは1870年代に停滞してしまう。日本の生糸がアメリカを中心に輸出を爆発的に増やすのは、1880年代半ばに長野県諏訪郡を中心に近代製糸業が本格的な成長を開始してからであった。(同書86-87頁)

※阿部と同様の見解。

●第3節「近代資本主義の組織」
(1)近代製糸業の組織

1870年代末に叢生した、簡易器械を装備した中小製糸工場の生糸は、横浜で外国貿易商社に販売された後、貿易商社の検査によって品質別に荷造りし直され、その貿易商社の商標でフランスに輸出されていた。品質保証にともなう利益は製糸家ではなく貿易商社が得ていたのである。
1880年代半ばにフランスが不況になる一方、アメリカで機械化された絹織物業が成長してくると、アメリカ市場が新たに有望な市場として登場してきた。当時の製糸家はまだ規模が小さかったが、諏訪郡の中小製糸家は、機械化されたアメリカの絹織物業向けにまとまった量の生糸を出荷するために組合組織を作った。そのなかでも開明社という組合は、後の製糸業の発展を左右することになる、ふたつの改革を行った。ひとつは、共同再繰という、より均一な生糸を生産するための技術の導入である。力織機を使うアメリカの業者はより均一な生糸を求めたからである。もうひとつは、組織内で品質検査を厳格に行い、粗悪糸を作った製糸家が損をするような仕組みを作るとともに、独自の「開明社」商標を確立し、品質保証にともなう利益を貿易商社から奪い取る組織面の改革であった。メーカーブランドを確立した開明社はアメリカ市場で大きな成功を収め、他の製糸家もそれに追随し、製糸業の産業組織は一挙にメーカー主導のそれに変わったのである。(同書95−96頁)

抜き書き2.浜野潔ほか『日本経済史 1600−2000――歴史に読む現代――』慶應義塾大学出版会, 2009年

第2章「田沼時代から松方財政まで」

輸出産業の花形であった生糸製糸業では、女工の熟練に依存せざるを得ない製造工程の難しさと、輸出の好調さもあってか、新しい技術を導入ないし開発しようというインセンティブが高まらず、外来の技術を導入しつつ日本の技術を改良した器械製糸が在来の座繰製糸を上回るようになるのは、ようやく19世紀の末であった。(84−85頁)

※座繰製糸と器械製糸とが長期間併存したという指摘がなされている。

伊藤正和、小林宇佐雄『ふるさとの歴史製糸業:岡谷製糸業の展開:農村から近代工業都市への道』, 岡谷市教育委員会, 1994年

●(明治初年頃の話として)

「機械糸」と呼ぶようになったのは、蒸気を使って糸を採ることに第一番にみんなが驚いたからです。それで、岡谷に製糸が入ってきた時に、この製糸業をやることを「キカイをやる」といったのです。…中略…
さてそれでは、その機械を取り入れなければならないようになった原因は何かというと、ざぐりには撚りかけ・集緒といった作業が入っていなかったため、良い糸ができなかったということなのです。つまり粗製で、良くなかったからいきおい値段も安く、また、買う人がいなくて困ったのです。その粗製の糸をなんとかして良くしなければいけない、良質の糸を作りたいということが第一の理由でした。
…中略…
そこで、良い糸を作るために、フランスやイタリアから機械を取り入れようということになったのです。洋式の洋というのは、西洋式の製糸法ということです。つまり先に述べた撚りかけ・集緒を完備した器械製糸法ということです。(65頁)

●明治初年頃の品質の問題
・繭の品種が雑多で、品質も統一されていなかった。→糸目も糸質も問題。

・生糸の太さの問題
 ・明治直前頃に、ヨーロッパでは蚕の微粒子病が流行して製糸業が大打撃を受けた。

その当時はフランスの生糸が一番良く、フランスの絹製品は、芸術的な作品を織り出さなければならず、そのために優良糸だけを必要とする時代になっていました。簡単にいうと、細糸とか、優良糸を取らないといけなかったんです。その当時フランスで優良糸というのは、11デニールくらいから以下の細い糸で、しかもそれが揃っていることが要求されていました。
それに比べてこの岡谷で、つまり日本で作っていた糸は、だいたい14・5デニール以上の生糸で、細糸に比べれば太糸の部類に入る糸です。アメリカはまだ絹織物がそれほど進んでいませんでしたから、太糸でもアメリカの織物に合っていたことが、その後にアメリカへ輸出が増していくもとになったのでした。
……中略……
このようにアメリカ向けに転換したのは、向こうの織物業の進歩に関係があったということです。アメリカでは好んで14中の糸を買いましたから(注1)、当時、生糸といえば14中といわれるのが常識ではなかったかと思います。(74頁)
注1.14デニールを目標に繰糸された糸をいい、だいたい13から15デニールの範囲にある

明治10年代頃の問題(76−83頁)
・生産量が少なく、出荷が少なすぎること
・繭が不揃いで、糸を取る機械も千差万別であったため、糸が均質でないこと
 →結社を作り、共同出荷で量を集める。また、糸質の統一に努力する。
  ・共同で検査し等級に分けて荷を作る。
  ※それ以前は、中に粗製の糸を入れ外側を精製した糸で包むなどの行為が見られた。
  ・繭の共同購入や共同揚返場などで品質安定を目指した。

メモ(その2)

明治初期の日本産生糸は、確かにさほど上質ではなかったようだがひどく低質でもなかったのではないか。輸出品としては西洋技術を生かした器械製糸が主力であったようだが、在来的な座繰製糸による輸出品もまた併存したのではないか。そこでは、原料繭の雑多性や多数の小規模業者による不統一な品質管理等があって、集荷した生糸の量や品質にはばらつきがあったのではないか。それを反映して輸出された生糸の品質にはかなりの幅があり、糸の番手や均質さなどによって用途や仕向先は様々であっただろうと思われる。だから、「世界一の品質」を誇る高級品として世界を席巻したわけでもなければ、安価な粗悪品として市場の低価格帯でシェアを占めたというわけでもなさそうだ。生糸の輸出が伸びたのは、アメリカの自動織機向けすなわち量産用糸が主力であったからで、それに合う糸を量産できたことが一因であった、そしてその機械用生糸の量産を可能にしたのが西洋技術を下地にした器械製糸(とそれを支える社会的生産システム)であったということではないだろうか。

追記(2015年10月27日)

冒頭に示した「Togetterまとめ」に、関連する論文へのリンクを示すコメントがあったので、その論文へのリンクを貼っておく。
CiNii 論文 -  大野彰「アメリカ市場で日本産生糸が躍進した理由について」京都学園大学経済学部論集 19(2), 1-55, 2010-03論文PDF
CiNii 論文 - 「生糸品質の機械的検査法及び生糸検査制度の確立による逆選択の解消について」京都学園大学経済学部論集 18(1), 1-23, 2008-09論文PDF
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