最も「困難校の生徒の進路指導や支援についての知識やノウハウがきわめて不足している」のは大学教員かもしれない。

言いたいことは表題だけで尽きているのだけれども。

本田由紀氏の一連のツイート(@hahaguma)に考えさせられたのでメモしておく。本田さんのツイートは高校の状況についてのものだが、大学についてまるまる当てはまっている。

今日きいた話。少なくとも某自治体では、ここしばらく大量採用されてきた若い高校教員が、特に困難校の生徒の進路指導や支援についての知識やノウハウがきわめて不足している。自身は大学進学したし、先輩の年齢層の教員は少なく、年配教師からはうけつがれていない。サポステとは何かも知らない。
専門高校ならば日々の教育の延長線上で教師も生徒も仕事の世界への土地勘のようなものを獲得できる。しかし普通科困難校で、教員も大卒後に教育現場しか知らない場合、自分とは異なる家庭背景やふるまいの生徒にどうすればいいか、学校以外の仕事の世界の実情はどうなっているか、対処ができていない。
教育委員会もスーパー〇〇ハイスクールといった華々しい改革には熱心だが、不利な状況の生徒や彼らが集まる高校への支援は手薄い。就職支援アドバイザーなどが来ている高校もあるが、週数日、放課後のみ1名で、そのアドバイザーの校内での位置づけもおぼつかない。その導入すらしていない高校も。
『危機のなかの若者たち』257頁の図11-8では、高校普通科を最終学歴とする者は、進路展望を得た、知識・自信がついた、よい人間関係が得られたといういずれの点でも、高校専門学科や短大・専修学校や大学以上の学歴の者と比べて著しく水準が低い。誰もが普通科高校卒業後に進学できるわけではない。
総合学科普通科に改編したばかりの某高校の教員たちは、これでやっと「当たり前のことを」「普通に」できる高校になった、と喜んでいた。選択授業の開設に苦労することも、生徒の空き時間を管理する必要もなくなり、学級単位での管理が可能、と。立派な介護実習室も園芸用の温室もつぶされた。
私は総合学科よりは専門学科が望ましいと考えている。しかし普通科よりは仕事や社会との接続をもつ教育内容を提供していた総合学科が無残につぶされ、新たな普通科で「中堅私立に一般入試で入れる」生徒を出すことが至上目標にされるようになることを痛ましく思う。その残念さは生徒らも共有していた。
https://twitter.com/hahaguma/status/943143645271670784

高校教員が大学教員と同じようなマインドを持つようになっているのかな、というふうに読んだ。
通例では、大学教員は大学院を出てポスドクや非常勤講師や任期付き研究員などをやりながら大学の教員ポストを目指すので、「学校以外の仕事の世界の実情」を知ることはほとんどない。最近は実務家や他の仕事の経験のある人もちょくちょくいるが、そういう人はまだ少数派だし、おそらく研究業績で競争する限り、そういう人が主流になることはないだろう。
おそらく大学は高校よりも「困難」の度合いはかなり小さいだろうが、それでもそれなりの困難に直面することは多い。いわゆる「低学歴」とか「Fランク」などと揶揄される大学では、それは日常的なことである。大学院上がりの教員たちはそういう場所で洗礼を受け、自分の仕事が学生の生活指導やメンタルケアであることに徐々に慣れていくわけだが、それは個人的な成長というか変容というか諦念というか、とにかく各教員の自覚にゆだねられていて、組織的な何かがあるわけではない。
本田さんのツイートになぞらえると、大学の経営陣も文科省もCOCなどの華々しい改革と競争資金には熱心だが、不利な状況の学生への支援は手薄だ。先日は名古屋大学京都大学でもカウンセリング窓口の業務がパンク状態だという記事があったが、メンタルヘルスケア、学習困難者や就学困難者への支援には余り光が届かない。私大の運営では、これらの問題は中退者対策、すなわち授業料確保の問題と認識され、とにかく辞めさせず留年させずに無難に卒業させさえすればよいという形で受け止められることも多い。実際、休退学対策の必要性を訴える時に一番聞いてもらえるのが「中退者を一人減らせば年間100万円売上を守れる」という話だ。退学削減のコンサルティングをしている某団体のトークでも同じことを強調していたし、学校法人の数名の経営者からも同じ話を聞いたことがある。もちろん、「1人=100万円」という話は便法であって、本質は学生に良い人生を送ってもらうために我々に何ができるかという話なのだが、しかし大学認証評価や情報公開の流れの中では休退率や就職率などのKPIに意識が収束する傾向があるのも否めないし、大学教員の中に、職場を「『当たり前のことを』『普通に』できる(上記本田ツイート)」大学にしたい、そういう大学に移りたいという気分が濃厚にあることは否定できない。それゆえ、困難校としての使命に向き合おうというモチベーションよりも、少しでも大学の偏差値ランクを上げて困難校から脱出しようであるとか、あるいは校務はそこそこに、早く研究業績を稼いでこの大学から脱出しようであるとか、そういう雰囲気がにじむようになってしまう。そういう雰囲気の中では、学生の職業教育や自己肯定感・自己効力感の回復などのためのプログラムは一部教員の個人的な趣味としてしか実施されない。そしてこれらの教員が疲弊したり移籍したりすると、時間をかけて広げられてきた活動空間も、積み重ねられてきた実践的知識も人間的なつながりも、全てたちどころに雲散霧消してしまう。
とは言うものの、私は新入の大学教員にこの種の学生対応に熱心に取り組めとはなかなか言えない。彼らの将来を妨害することになるからだ。それにどう見ても適性がない人もいるし。そもそも教育業績を採用や処遇に反映させるべきだという話は昔からあるし教育と研究で別のポストに分けろという話も古くからあるが、なかなか進展しない。おそらく組織内部の設計の難しさや、社会的には大学での成長実績よりも偏差値ランキングに基づくブランド名の方が意味を持っていることなどの問題があるのだと想像している。もちろんこれは大学という制度と組織の設計問題であると同時に、教員と職員のある種のあきらめと覚悟、そして教育目標の再設定という現場サイドの問題でもある。まあ話はいくらでも大きくなるし、いろいろ細かい論点もあるが、とにかく現状では、一部の開き直れる大学以外では、「進路展望を得た、知識・自信がついた、よい人間関係が得られたといういずれの点でも……中略……著しく水準が低い(上記本田ツイート)」状態が続いているだろうと思う。そしてそれはとても痛ましいことである(他人事みたいな言い方だけれど)。