「信頼こそ教育の要 夜回り先生・水谷修さんに聞く」の保存と簡単な感想

ブックマークしてもすぐ読めなくなってしまうので魚拓にした。
(cache) 東京新聞:<いじめからあなたを守りたい> 信頼こそ教育の要 夜回り先生・水谷修さんに聞く:暮らし(TOKYO Web)
記事を知ったのはこちらから。
就任そうそうナイスアシストの副大臣 - Apes! Not Monkeys!  本館
水谷氏の話の中で琴線に触れた箇所を抜粋しておく。
●学校で対応すべきいじめと、それ以外のいじめがある。

  • 学校内で対応できるいじめ:悪口、無視、いたずらなどの倫理的、道徳的な問題(不健全な人間関係)
  • 学校内で対応できない(しない方がいい?)いじめ:犯罪や人権侵害。暴力でけがをさせた、お金や物をとった、ネット上に死ねと書き込んだ−など

一般社会で誰かを殴ったら傷害罪。犯罪は警察に通報する義務がある。人権侵害があれば、法務省人権擁護局に通報する。だが、学校では『いじめ』とされ、通報は間違いか恥だとして関係機関の介入を拒む。できないことまでやろうとするが、結局何もしないから『生徒の自殺』という悲劇を招く。今、必要なのは、学校ができることと、できないことを理解することだ

確かに「まず我々が」と思ってしまうし、問題に関われば関わるほど、それ以外の人たちに協力を要請するのがおっくうというか面倒くさいというかしんどいなあと思ってしまう。
●いじめ対策には人権擁護局との連携がよい(校内に分室を作って委員が巡回や調査をするなど)。

人権擁護委員は高齢者が多いが、スキルが高く、いじめがあれば法的な対応もできる。今はさまざまな立場の人でつくる『いじめ対策委員会』の設置が検討されているが、単独組織の方が迅速に動けるはずだ

警察や精神医療関係をまず思い浮かべてしまうので、人権擁護局というのは正直盲点だった。
●「教育と子育ての基本は、信じて待つこと」

 「大人のイライラの連鎖が、子どもたちにぶつけられている。否定されて育ち、自己肯定感のない子が多い。追い詰められた子どもが学校で仲間を傷つけている」
 「ささいなことでいい、子どもたちをほめてほしい。僕は生徒を叱ったことはない。怒鳴りもしない。どんな子にも光っているところが見える。いいところを見つけられて自信が出ると、子どもは生き返ってくる」
 「人には二通りの生き方がある。信じる生き方と疑う生き方だ。ぼくは信じるところから始める。裏切られても裏切られても信じる。だから多くの子どもたちとともに生きてこられた。教育と子育ての基本は、信じて待つことだ。信じられている人間は、それに応えようとする」

これは全く同感。自分の現場感覚でもこういう実感がある。もちろん正すべきは正さないといけないし、教えるべきことは山のようにある。しかしそれは「ダメだ」ということとは違う。
…ただ、ただですね、短い授業時間で、こなすべき進度があり、なおかつ100人を超えたりする講義の中では、秩序維持のために叱らざるを得ないということもあると思うのです。叱られるたびに彼らが傷ついているのが非常によくわかる。存在否定だと思われてしまう。そのたびに非常に内心はつらいのですが。そして秩序を乱す人を教師が叱ることを多くの学生が期待しているということも。どう考えていいのかずっと迷っているのです。もっとも、水谷氏がここで述べているいじめ問題とは別の次元のことかもしれませんが。あと、問題の性質が違いますが、発達障害や心の問題を抱えた学生も混ざっているので、そこの対処法をどうするかということもありますね。

 −今の教育で一番必要なのは「信頼」だと。
 「国などがやろうとしている教育改革は、疑う教育。『教員は管理しないとまじめにしないから管理しろ』『子どもは休ませたら勉強せずに遊ぶだけだから、管理して休日も登校させろ』と。そんなことでいい教育なんか生まれない。先生だって尊敬され、信じられていたら裏切らない。教員の不祥事が多いのは、信じられていないからだ」

これは管理職と現場教員との関係、教員と生徒学生との関係の双方で感じること。管理する立場からすれば、疑う方が楽なんだよね。疑って管理する方が楽。そしてその考え方の方が直感に合う。
X理論とY理論という話を思い出す。
プリンシパルエージェントという問題の建て方は、その基本に「疑う」人間観があって「これが冷酷な現実なのだ」という言い方にしばしばつながるのだと思うけれども、人間とは本来そのような単純な生き物だろうかという原点は絶えず振り返らなければならないだろう。
●教員には責任がある。

ただ、教員に心にとめてほしいのは、学校は教育の場であると同時に、子どもの笑顔と命を預かる場であること。笑顔を失ったり、亡くなったりした子がいれば、責任を取るべきだ。今は、事件になっても、誰も責任を取らない。信頼のないところに教育は存在しえない。

覚悟を持たねばならない、ということ。「責任を取る」とはどういうことかに悩むわけだが。