他罰的であることを人にかけられた呪いであるとすること

コロナ感染者が謝罪、日本だけ? 「悪者認定」がもたらす致命的問題 | 47NEWS(2020/5/3 07:00 (JST))

 新型コロナウイルスに感染した有名人に対するバッシングがSNSで繰り返されている。感染者を責める対象は、有名人に限らない。人をたたき、「謝罪」を求める強い衝動はどこから生まれるのか。社会心理学が専門の三浦麻子・大阪大学大学院教授は、日本は他国と比較して、感染は「本人のせい」と捉える傾向が強いという。感染者を責めることは、道徳的問題にとどまらず、致命的な結果を招く恐れがあるとも話す。三浦さんに昨今の風潮を読み解いてもらった。

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 新型コロナウイルスに感染した人たちに謝罪を求めたくなることがあるかもしれません。しかし、そんな気持ちになったときは、是非、自分の心にブレーキをかけてください。

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 ▽にんげんだもの

 社会心理学の様々な知見を踏まえて考えると、感染者(正確に言えば「感染が確認された人」)に謝罪を求めたり、激しい非難を浴びせたりといった行為に走る人が少なからず存在する。これは不可解な現象ではない。筆者はよく「にんげんだもの」という言葉で説明するのだが、時にまったく合理的ではないことを、人間は平気でやらかしてしまうことがある。

 ▽被害者を非難する心のしくみ

 感染者のように本来「被害者」のはずの人を過剰に責める行為は、新型コロナウイルス禍でなくとも頻繁に生じている。通り魔被害に遭った女性が「深夜に出歩く方が悪い」などと責められる事案がそれである。

 私たちは、自分が住む世界に安定や秩序を期待している。これを「公正世界信念」という。この信念を持つことで心の安定がもたらされ、前向きに生きられる良さがある。その半面、安定や秩序が奪われてしまうかもしれないと思った時の心のぐらつきは大きい。そんなとき「あれは被害者が悪かったのだから自分は大丈夫」と考えることで、不安な気持ちをなんとか押しとどめ、安定や秩序を取り戻そうとすることがある。

 被害者への非難が生じる背景には、感染がまだ「不運」な事象であることが関係している。本稿を執筆している4月26日時点で日本国内の感染者は1万3182例。ほんの3カ月前のことを思えば膨大な数だが、総人口からすると0・01%、1万分の1の不運がわが身にふりかかってくるなどと考えたくもない。「そうだ、感染者が悪い」と決めてかかることで、その不安や恐怖から逃れようとするのである。

 そもそも、他者の行為の原因をその人自身に求めたがる心のしくみもかなり頑健である。これを対応バイアスという。「明らかに本人のせいではない」とは断言できないようなケースでは、この対応バイアスがさらに顕著となる。

 また、これまでの筆者らの研究では、日本人は欧米人と比較すると「悪い人が不運な目に遭うのは自業自得」と考えやすいことも一貫して示されている。筆者らが3月末に日米英伊の4カ国で実施したウェブ調査でも、新型コロナウイルス感染を「本人のせい」とする傾向が他国よりも強かった。それが何に由来するにせよ、日本には「悪者なんだから謝れ」が許容されやすい風土があるようだ。

 ▽真実だと思いたいものを「真実」にする

 自分が真実だと思いたいものに向けて事実をゆがめたがる心のしくみを確証バイアスという。これもまた「にんげんだもの」の典型例である。普段であれば、無意識のうちにそうしてしまった自分に気づいて修正をかけられるものでも、不安や恐怖にさいなまれるとブレーキが利きにくくなる。

 確証バイアスは「真実だと思いたいもの」になるように、事実を歪曲する行為なので、「感染者が悪い」とは異なる方向にも事実をゆがめることがある。感染を公表した有名人に対して、本人の不行状だと厳しく責めることもあれば、やや過剰に同情が集まることもある。感染した事実は共通しているのに、反応がまちまちなのはそのせいである。

 ▽メディアという増幅装置

 ひとりひとりのこうした行為が社会的な「風潮」となることに、マスメディアやSNSが手を貸していることは否定できない。マスメディアによる「こんな事例があった」という報道が増幅装置として働き、「みんなそうしている」という風潮ができあがるのはいつものことだ。

 SNSは、個人がマスメディアと同等か、あるいはそれ以上の発信力を持つがゆえに、「お気持ちメディア」的な色彩が濃い場所である。「お気持ちメディア」とは、筆者らが東日本大震災に関するツイートに含まれる感情語の特徴とその伝播過程を研究する中で、SNSの特徴を一言で表現するならこれがぴったりだ、と思った表現であり、学術用語ではない。

 筆者らの研究で示されたことは二つある。一つは,SNSは、ネガティブであれポジティブであれ、人が強い感情に突き動かされたときに投稿されやすい場所だということ。そしてもう一つは、強い感情を伴う投稿は、そうでないものよりもはるかに拡散しやすいということ。SNSもまた、個人の行為を「風潮」たらしめる増幅装置である。

 ▽感染者を責めてはならない

 「にんげんだもの」だからこそ、またそれが容易に増幅されるような社会に生きているからこそ、筆者は強く主張する。感染者を責めてはならない。それはなぜか。感染者に謝罪を求め、彼らを悪者認定することは、感染拡大を抑える働きがないどころか、むしろ拡大させる危険性をはらんでいるからである。

 感染者に負の烙印(スティグマ)を押すことで、その人自身の心身に過度のストレスをかけることはもちろん好ましくない。

 さらにこうした行為は、感染者が責められるさまを見た人々に「自分も負の烙印を押されたらたまらない」と思わせる。そんな人たちは、自らは感染している可能性が高いと思っても、または感染を示すような症状が出ても、それを隠して普段通りの生活を続けるかもしれない。

 感染しても潜伏期間が長く、また一目見てわかる症状が出ないこともある新型コロナウイルスの場合、それが文字通り致命的な悪影響をもたらす可能性は誰しも理解できるだろう。

 私たちが互いに不寛容でいることは、確実に社会をむしばんでいく。責めない方が道徳的に望ましい、というだけではなく、責めることは自分にとっても不利益につながるのである。

 ▽「にんげんだもの」とあきらめない

 筆者は、感染禍にある今に限らず、人間のあらゆる行為はこうした心的メカニズムによるものであることを、できるだけ多くの方々に知ってほしいと常々考えている。知っていて初めて、感染者に謝罪を求めたくなっても、踏みとどまれるのではないかと思うからである。もちろん、行動経済学的なアプローチのように、意識せずともそうさせるような仕組み(ナッジ)を導入する試みも有用だろう。しかし、心理学者としては、それぞれが自らの心のうちをよりよく知り、自覚して修正してほしいと思う。

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 新型コロナウイルスに感染した人たちに謝罪を求めたくなることがあるかもしれません。それが人間の性(さが)なのですから。しかし、そんな気持ちになったときは、是非、自分の心にブレーキをかけてください。自分のために。そして、社会のために。(大阪大学大学院人間科学研究科教授=三浦麻子)

以下の指摘は心にとめておきたいところ。

●「公正世界信念」
私たちは、自分が住む世界に安定や秩序を期待している
その半面、安定や秩序が奪われてしまうかもしれないと思った時の心のぐらつきは大きい。
 
●対応バイアス
他者の行為の原因をその人自身に求めたがる心のしくみ
 
●筆者らの研究では、日本人は欧米人と比較すると「悪い人が不運な目に遭うのは自業自得」と考えやすいことも一貫して示されている。
 
●確証バイアス
自分が真実だと思いたいものに向けて事実をゆがめたがる心のしくみ
普段であれば、無意識のうちにそうしてしまった自分に気づいて修正をかけられるものでも、不安や恐怖にさいなまれるとブレーキが利きにくくなる
 
●SNSは、個人がマスメディアと同等か、あるいはそれ以上の発信力を持つがゆえに、「お気持ちメディア」的な色彩が濃い場所
SNSは、ネガティブであれポジティブであれ、人が強い感情に突き動かされたときに投稿されやすい場所
強い感情を伴う投稿は、そうでないものよりもはるかに拡散しやすい

「筆者は……人間のあらゆる行為はこうした心的メカニズムによるものであることを、できるだけ多くの方々に知ってほしいと常々考えている。知っていて初めて、感染者に謝罪を求めたくなっても、踏みとどまれるのではないかと思うからである。」「心理学者としては、それぞれが自らの心のうちをよりよく知り、自覚して修正してほしいと思う。」
人が社会の中で生きる上では、自分の心理を知り、よりよい方向へ意識を向けることは、たぶん最も基本的で最も大切な方法だろう。そこに異議はない。けれども、それはしばしばとてもしんどい。自分が期待する公正さが実は独りよがりの誤った観念であるかもしれない、他者の問題行動の原因はその人にないかもしれない、自分が真実だと思っているものは実はそうではないかもしれない、何かに怒りや悲しみを感じるたびにそういうチェックを常にしていき、自分の感情に理性でブレーキをかけて自分の内部で折り合いをつけ続けることは、非常に苦しい。さらに、「ひょっとすると少なくとも部分的にはその人の責任ではないかもしれない」事柄(大抵の事柄はそういうものだ)について、その当人の責任を問い反省を求め処罰を与えねばならないのではないかという状況においては、「正義」のあり方について根源的な疑問を抱えつつも、日常の業務としてそれを処理していかねばならない。この狭間に立ち続けることもまた心の重圧になる。
物事を他罰的に解釈し、自分の負の感情を外に表出させ、自分の「公正世界」のイメージと「確証バイアス」がかかったままの事実認識とを守り続ける。こういう反応はおそらく心の安定のために非常に有効なのだろうし、だから合理的な反応として人間心理に組み込まれているのだろうし、実際にそういう傾向が強い人がいるのだろう。そしてこの心理に従って心を解き放つことができれば、自分にとって世界は(少なくとも内面的には)気持ちよくなるだろう。他方、そのように自らの内面に深く刻み込まれてしまった心の動きを「呪い」であるとし、その解除は本人自身に課せられた任務だと受け止めた人にとって、この世界は自己克服の試練が延々と続く修行の道となる。解脱できる人は限られるだろう。