いろいろ無知なことを実感した件

平塚らいてうの「原始、女性は太陽であった」とか、サンガー婦人と山本宣治の産児制限運動とかのことは、子供の頃からなんとなく読み知っていたのだけれど、所詮断片的なうろ覚えに過ぎず、民衆史というか運動史というかの観点から流れをわかっているわけではなかった。日本史は中学校止まりで、自由民権運動田中正造などを氷山の一角のように覚えたものの、思えば明治大正と言えども60年ほどもあり、分厚い社会運動のうねりがあったはずで、戦後から現代に至る流れの源流が多くあるはずなのであった。
というわけで、今回「廃娼運動」というものの存在を始めて知った次第。赤線の廃止は売春防止法施行の1958年という戦後であり、戦前までは遊郭があって「女を買う」ことが全く罪悪にならず、古来から夜這いが当たり前にあって「おおらかな性風俗」が日本の伝統なのであり、明治以降の近代化・西洋化の中で貞操観念や純潔、純愛という価値が徐々に入ってきて、性交が一夫一婦の中に閉じ込められていったのだ…というような漠然としたイメージがあったのだけれど。

田中弘子(2004)「資料:女性・子どもの危急対応と社会資源(2)──新宿1946〜1954の検討を中心に──」愛媛大学教育学部紀要人文・社会科学第36巻第2号57〜75

http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/0402/pdf36-2/4.pdf
 
従軍慰安婦問題で、慰安婦への謝罪・賠償を否定する意見の中に、当時の性風俗や売春婦の容認という当時の価値観を根拠とするものがある。これに対して、慰安婦制度が当時の価値観においても容認しがたいものだったということを示すために、多くの県であげられた廃娼決議が挙げられている。
これに関係して、上記の論文を見ると、例えば1869(明治2)年には既に人身売買を禁ずべきという議決があるなど、明治初期から売春規制や売春公認廃止を求める動きはあったのだった。もちろん、私娼禁止と公認化への賛否、さらに売春そのものへの賛否については、人権尊重という以外にも様々な意図があったのかもしれない(例えば「女大学」的な価値観からの反対や外国で娼妓になった人達を国辱と考える人達とか)。にも関わらず、上記論文を見ると、明治期から娼妓公認反対や廃娼運動は継続し、人身売買の禁止や「醜業」に身を落とした人々の救済を求める動機が厳然としてあったこともまた否定できないのであった。考えてみれば当然なのだが、社会の意識が変わるまでには長年にわたる息の長い働きかけが必要であり、女遊びが男の甲斐性だという考えが容認されにくい現代がある以上、それ以前に人々の運動が存在していて不思議はないのである。さらに思えば、当時から「苦界に身を沈める」悲哀が一方で語られてもいたわけで、その救済を目指す人々がいたというのもまた全く不思議ではないのであった。
そして改めて気づいたのだが、上で述べた私の漠然とした戦前の性風俗イメージは、両性の双方向的な「おおらかな性風俗」的な牧歌的イメージの中に、人身売買や女性の(まさにセックススレイブというべき)性的搾取、そして妾や私生児に至る差別・貧困を混ぜ込んだ…隠蔽した…ものであった。
 
ところで、1920年に廃娼令が制定され、日本人による海外での売春が禁止されている。
この一方で国内と日本帝国支配領域では公娼を認めていたわけで、外向きには売春を禁じ、内向きには売春を認めるという二重基準が続いていたと言える。
http://nikkeijin.pbworks.com/w/page/8261805/%E8%AC%9B%E7%BE%A9%EF%BC%9A%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E7%B7%A8
ここの記述によれば、廃娼令は「ヨーロッパ諸国からの非難をかわすことと、日本の外交的な体面を保つために」制定されたという。そして国内では軍のために慰安所を設置し、戦後も進駐軍向けに慰安所を設置した。
先のエントリ片山さつき議員への政府答弁書を取り上げたが、その文言からして、日本政府の意識はどうも当時から何も変わっていないのではないかというように思えてならない。