「地方と都会のどっちがいいか」という問について

仕事柄、「地方と大都市(具体的には東京)とのどちらに住むべきか」という質問を受けることが多い。この種の田舎と都市、地方と首都圏とで「どちらがいいか」を比較する話題はあちこちに良く出てくるから、気になる比較なのだろう。先だっては「引っ越してきてからもうずいぶん経ったなあ」と言ったら、「こっちと郷里とどっちが住みやすいか」と尋ねられて、返答に窮してしまった。
こうした質問を受けるといつも思うことだけれど、それはそもそも問題の立て方にちょっと間違いがあるのではないか。
そもそも、この種の問は問題の定義が曖昧で、単純な答を出すことができない。例えば、比較の多次元性、地域性による差異と個人的事情による差異の区別の曖昧さ、比較する地域の範囲の曖昧さがある。
比較の多次元性について言えば、ある特性ではこちらがいいが別の特性ではあちらがいいというような場合、それらの評価の軽重の置き方は状況によって異なるので一概にどうとは言えないということだ。
次に、地域性による差異と個人的事情による差異の区別の曖昧さという点については、地域間の格差は確かにいろいろとあるのだけれど、格差について言えば、地域内の様々な格差の方が大きいのではないかということがある。例えば、居住費用の大小は、どの都道府県に住むかよりも、特定のローカルなエリア内でも、そんな住処を選び、どんな生活スタイルを取るのかに左右されることの方が大きいだろう。移動費用も同様で、まち場に住むか郊外に住むか、勤務地と居住地の間の距離はどうか、また時間的な余裕はどうかという、個別の生活事情に左右されることが大きいだろう。というか、そもそも、そうした生活条件を考慮しつつ、居住地や家屋は選ばれるものだ。ただもちろん居住地の環境にある程度依存せざるを得ない要素もあって、例えば教育や医療、社会活動に関する要素は自分で調整できる幅が比較的小さい。しかし、例えば同一業種内の地域間賃金格差よりも同一地域内の業種間賃金格差の方が大きいし、雇用形態による差もまた地域間格差以上の格差を生み出す。有効求人倍率地域間格差に見るように、もちろん雇用機会の地域間格差はあるが、個人の就職活動は、通常、無作為なランダムマッチングのようにして行われるものではないので、必ずしも雇用機会の多い地域だから良い仕事に就けるとは限らない。平均と個人の経験とは当然ながら乖離がある。
そして、それぞれの土地の生活で得られる経験やその土地への印象は、各人の生活という非常に限られた範囲内で出会った事柄に左右されるだろうし、事物の受け止め方には各人の性格やそのときの心理状況が大きく影響しているだろう。自分の周囲の環境とどう関わってきたか、関わろうとしてきたかによって、そこでどんな事物と出会うかもまた大きく変わるだろう。こうした要素を考えて行くと、各地域で生活したときに経験するであろう様々な事柄について、そのどこからどこまでを、(他の地域とは異なる)その地域の特性だと評価していいのかは、ほとんど分からない。
比較する地域の範囲の曖昧さという点は、まず一つ目として、例えば「東京」と「大阪」という具体的な地域間で比較するにしても、それぞれにどの範囲の地域まで含めるのかという問題がある。大阪市大阪府では非常に範囲が異なるし、東京も23区内に絞っても様々な場所がある。「地方」や「大都市」というくくりだとなおさら漠然としている。全体的に語ろうとすると具体的な比較ができず、具体的に話そうとすると切り取り方次第でどうとでも言えてしまう。そして二つ目の問題としては、上で少し述べたが、どんなに地域を限定してもその地域内部の多様性を無視することはできないということがある。「地域」とは多様な要素のごった煮のようなものだから、その人の人生にとっては「どこに住むか」よりも「どう住むか」の方がよほど重要な意味を持ったりする。そしてその「住み方」はしばしば地域性よりもその人個人の人生そのものに規定されていたりするから、一面的に「東京に住むと…云々」のような言い方はあまり意味を持たないだろう。
しかし、「地方と都会のどっちがいいか」という問に対して私が違和感を感じる理由は、こうしたある意味技術的な問題よりも――いや、これらとも関係しているのだけれども――、そもそもこうした問いかけには、個人の固有性と主体性、言い換えると、その土地との関係を築き上げるのはその人個人の意志と行動だという視点が抜けているのではないかという点だ。つまり、ここでは、地方に住むとか大都市圏に住むとかということが比較対象になっていて、そこで自分が何をするのか・どうやって生きるのか(生きられるのか)ということに焦点が当たっていないのではないかということである。
上で述べたように、「地方」や「首都圏」という茫漠とした抽象的な概念の中には、固有のローカルな環境が多様・無数にあって、それらの中のどれとどれを比べるのかが区別されていないという曖昧さはもちろん、さらに、「地方」なり「首都圏」なりを自分が選んだときに、それぞれの土地に何を期待できるのかは、その個人個人によって非常に大きく変わってくる、つまり各人の固有性に強く依存しているわけで、そもそも一般化して語れるような抽象性を持ちうるのかということも非常に疑わしい。例えば対人関係の作り方などはその人個人の人格以外に、連れて行く家族の状況、居住先の近所の人、仕事仲間、子どもの友人関係やその親との関わり方、その他諸々の人たちとの、相性や出会い方、利害関係のでき方などにも大きく左右され、果たして地方色などというものを(それが仮にあったとしても)そこに措定する意味があるのかという気がする。そして、こういった比較対象の曖昧さや個人固有のミクロな多様性とそれへの従属性の高さということ以外にも、もっと大きな問題があるのではないか。それはすなわち、どのような生活を目指すのか、何をしたいのか、何を実現したいのか、どんな価値を優先しようとしているのかという、自分自身の生き方への固有性を前提にしないで、どの土地が望ましいかをそもそも比較できるのだろうかということだ。
例えば、東京都北区の赤羽に住むのと鹿児島県の徳之島町に住むのと、どちらがいいかという問を立てるとする。果たしてこのような問にどのような意義があるだろうか。そもそも、徳之島町と言っても亀津に住むのと手々に住むのでは大きく環境が異なる訳だが、そうした地域内の多様性はおいておくとしても、「なぜそこに住むのか・選ぶのか」という前提を設定せずに、漠然と「どちらがいいか」という問題にはどう答えることができるだろうか。徳之島にはIUOターンのいろいろな人がいる。その人たちもいろいろで、はじめは定住するつもりがなかった人、定住を目指したが島を離れた人、将来の生活を考えつつ、島暮らしとの距離を探っている人などがいる。マリンスポーツや自然環境に惹かれ、地域の人々との関係を徐々に築いて生計を立てる道を探り、そして本格的な移住・生活スタイルの大変革をした人たちもいる。動機も人生も様々だが、どんな人たちも、その人なりの理由といきさつがあって、徳之島への移住に踏み切った(踏み切ろうとした)わけで、「東京都徳之島とどちらがいいか」という問は、その人たちのその時々の状況や問題に合わせて、その場その場で考え、議論するしかないし、そうしない問いかけは個人の具体的な選択においてほとんど役に立ちはしない。ましてや、こうした徳之島的な「地方」は日本(さらには世界)に無数にあるのだから、「地方と首都圏のどちらがいいか」という問にどれほどの意味を認められるのかと思うのだ。
とは言え、「地方」と「大都市圏」のどちらに住もうかと思うことに意味がないわけではない。人が、特に若い人が新たな土地を目指すとき、その移動理由自体は就職や進学など具体的な居場所が見つかってからのことが多いだろうが、その土地への漠然とした期待がその居場所探しのエリアに影響することは少なくない。漠然とした期待から、とにかく伝手を頼って都会に出るという形の移住や人口移動もまた無視できるものではないし、そうした動機で移住するという行動自体もまたその人の人生にとっては意味を持つことも多いだろう。欧米での生活に憧れて旅立った若者は昔からたくさんいたし、そうした人たちの選択や人生がみな失敗であったとは到底言えないだろう。だから、Iターンや「地方」から「都会」への移住(こちらはなぜかIターンとは言われない。ここに差別性があるのだが。)の善し悪しを漠然とした期待の範囲内で想像することにも意味がないとは言わない。自分の今の暮らしやその延長線上にある将来と比べて、「外国に行ってみたいな、都会に行ったらどうなるだろうか」と想像し、あれこれ調べてみることには、その人が自分の人生について考えるという意味があるだろう。しかし、「一般的に人はIターンすべきか」「平均的に言って、地方と東京のどちらに住むべきか」「最も住みやすい都道府県はどこか」などというような、地域内部の多様性はおろか個人の固有性も能動性も無視したような問には、ほとんど考える意味もないというふうに私は思う。